山梨県立博物館で平山優先生の「勝頼と長篠合戦」講座を聞きに行きました
先週 武田勝頼展 を見に行ったら、たまたま武田氏研究で高名な平山優先生のギャラリートークに遭遇し、展示内容の詳細な解説を聞けるという幸運に巡り会えたわけですが、今日は先生の「勝頼と長篠合戦」というテーマの講座があるというので、再び山梨県立博物館まで行ってきました。
13:30開演ということでしたが12:30の時点で150人くらい並んでました。
会場は180人ということでなんとか会場に入ることができました。
180人以降はサテライト会場ということでモニターで見られる会場が2ヶ所用意されていました。
平山先生は200枚以上のスライドを用意されたそうで、従来の通説の誤りの指摘や、長篠合戦についての詳細な内容についてお話しくださり、大変楽しむことができました。
こちらはお土産で買ってきた「長篠合戦屏風」のクリアフィアル
教科書などに載っている有名な屏風絵ですが、出来が良いことでいろいろな写本があるそうです。
信長、勝頼、秀吉、家康、有名どころの武将が描かれており、それぞれ名前が書き込まれていますが、家康の近くにいる大将級の武将に名前が書かれていません。
この武将は家康の嫡男である信康とのこと。この屏風は江戸時代に描かれたものなので、家康に背き廃された信康ということで、江戸時代に描かれたこの屏風では配慮され名前は入れられなかったようです。
この屏風では武田の主だった武将が馬防柵を前に、鉄砲の餌食となっている姿が描かれていますが、
武田勝頼展で展示されていた屏風の下絵では、馬防柵の中まで入り込んでいる武田方の武将の姿も描かれています。
実際、3段まで打ち破られて中に入り込まれたことの記録も残っており、信長の手紙にも自軍に少し損害が出たということが書かれているそうです。信長が自軍の損害について記述することは極めて稀なので、それなりの損害を被ったことが見て取れるようです。
また、馬防柵前で討死した武将は2名程度で、有名な武将たちの亡くなった場所に建てられた石碑は勝頼の敗走ルートにあり、撤退時に勝頼を逃すために死んでいったことが見て取れるそうです。
従来、武田騎馬隊 vs 織田鉄砲隊 の戦いとして描かれ、織田鉄砲隊の前に無謀な突撃をして全滅した武田騎馬隊 といった描かれ方をされていますが、武田にも鉄砲隊はおそらく千挺規模で存在し、一部屏風絵にも描かれています。
ひとつ織田方と異なっていたのは、火薬の原料である硝石は輸入に頼っており、織田信長が輸入ルートを押さえていたために、武田方は早期に弾切れとなり、織田・徳川連合軍は鉄砲を撃ち続けることができたということです。
長篠の戦い後に勝頼が出した書状には鉄砲1丁あたり弾薬300発を準備するよう書かれており、このことからも長篠合戦で早々に弾切れとなったことからの指示とのことです。
また、織田・徳川連合軍は窪地に兵力をうまく隠蔽し、武田はそれを事前に検知できなかったようで、展示されていた勝頼の書状では「織田・徳川はなすすべもない状態で陣地に引きこもっており、信長・家康を打ち取る好機」みたいな強気な手紙が残っており、武田は索敵に失敗し敵を過小評価していたことが伺えます。
こちらは武田信玄24将図のクリアファイル
この図柄は初めて見ましたが、信玄の24将図はいろいろなバージョンを見ますね。
裏面は武田勝頼の24将図
特別展の展示にもあり、平山先生の解説で知ったのですが、ちょっとおかしなところがあります。
左側中段に、真田兵部、真田源太左衛門、そして武藤喜兵衛の真田一族がいます。
ところがよく見ると右側下段に、真田安房守がいます。
真田安房守は言わずと知れた真田昌幸ですが、この方は若い頃には武田家親族衆の武藤家の養子になり武藤喜兵衛と名乗っていました。
長篠合戦で二人の兄が戦死したことにより真田家に戻り、真田安房守となっていますので、同じ人が二人描かれていることになります。
まあこの辺りは「ご愛嬌」だそうです(笑)
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